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2011/04

大津波と三陸海岸


沿岸漁業の漁船が集結する宮古港。山陵が迫るリアス式海岸の典型的な漁港。

春分も近くなり漸く暖かさが訪れようとした3月半ばに未曽有の大津波が三陸沿岸に襲来しました。正確な波高は計測中ですが、宮古市北部では海岸部の斜面沿いに海抜38mの地点まで波を被った跡が発見されたようです。明治29年6月の津波では綾里村白浜(現大船渡市)でやはり38mの波高を計測してますので、おそらく津波の規模はほぼ同程度と推定されます。38mという高さは13階建のビルの高さに相当します。明治29年、昭和8年の津波は夜半襲来したため一家あるいは集落が全滅するなど被害は凄惨をきわめましたが、今回は昼過ぎだったことがせめてもの救いかも知れません。

昭和8年以降で被害が生じた津波は昭和35年5月のチリ地震津波です。南半球で大地震発生の22時間後に襲来し、大船渡市53名、志津川町(現南三陸町)41名の犠牲者の他に多数の住宅、養殖施設等の流出被害が出ました。今回の大津波は実に51年ぶりです。物理学者・寺田寅彦の「天災は忘れた頃にやって来る」という言葉を痛感させるものです。 相次ぐ大津波による被害に対して戦前から長期にわたって構築された宮古市北部、田老町の高さ10mにも及ぶ堤防はチリ地震津波を凌いだものの今回は耐えきれませんでした。辛うじて被害を免れた集落として三陸北部の普代村、宮古市の姉吉地区が挙げられています。普代村は津波を経験した村長が集落の海沿いに高さ15mの防波堤を築いたこと、姉吉は津波の教訓により高台に集落を移したことによるものです。姉吉には「此処より下に家を建てるな」という碑銘を刻んだ石碑が残されています。

しかしながら、三陸地域の生活環境は海の存在を欠いては考えられないのです。背後地の北上山地(最高峰:早池峰山1,917m)は古生層で構成された概ね1,000m以下のなだらかな丘陵地帯ですが、鋸状の深い入江が続くリアス式海岸まで迫っています。平坦な土地は限られていますが、それでも人々が海岸近くに居住を続けてきたのは目前の海が世界有数の漁場であったからです。 冷涼な気候で米作は困難なものの北からの親潮と南からの黒潮が交わる三陸沖はマグロ、カツオからサンマ、イカ等に至るまで多種類の漁獲があり、また沿岸部はワカメ、コンブなど海藻類のほかにウニ、アワビ、カキ、ホタテ、ホヤなどわが国の食卓には欠かせない食材の宝庫です。秋になると沿岸の中小河川には数十万匹のサケが産卵のため遡上します。東京・築地に入荷する魚介類の20%は三陸物が占めていると言われますが、水産業が基幹産業であることが津波の被害を大きなものとしています。

江戸時代、三陸地域の干アワビは高級食材として廻船で運ばれ、長崎から貴重な俵物として中国等へ輸出されていました。民俗学の古典である柳田国男著「遠野物語」にも岩手県の内陸部と沿岸部との日常の交流が描かれています。気候のきびしさ、度重なる災害で沿岸部には歴史的建造物等は殆どみられませんが、宮古市郊外に築250年余り、伊能忠敬が測量の途中に立ち寄った素封家の屋敷が残っています。文化庁から登録有形文化財として認定されていますが、江戸に物資を運ぶ廻船の部材とか古道具類、さらに江戸から持ち込まれた書画等は往時の盛んな交易を明らかにしています。古来、海との共生は三陸地域にとって言わば宿命的なものでした。

今後、新たな防災対策を講じながらも産業再生のため水産業の復興が始まると思います。 東アジアなどグローバルな経済動向をみると、エネルギーだけでなく食料需給が世界経済の大きな課題として予想されます。わが国の食料需給については農産物の保護だけがテーマになりますが、水産業は昭和52年の領海200海里宣言と同時に自由化され海外の水産物が大量に輸入されています。三陸地域の水産業は自由化後もわが国の食卓に豊かな食材を供給してきたのです。再生の道はきびしいながら新たな水産業の興隆のため国を挙げての支援が望まれます。

柳内久俊
パブリック調査グループ
専門:都市経済、地域再生


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