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2012/12

penser

ここで、議論とは、「特定の論点について、より良い結論を得るという目的のもと、2人以上の人間が、それぞれの主張の根拠の妥当性について、言語によって吟味する、プロセス」であるとする。

第1に、議論は、特定の論点について成立する。論点を定めない言論は、会話ではあっても議論ではない。
第2に、議論は、論証の優劣を競うことを目的としない。対立する当事者の論証の優劣を第三者が判断する仕組みもある。しかし、そのような制約を受けない場合にも、勝敗にこだわる人がいる。論証の優劣を競う必要がないならば、自己の論証の巧拙を披露して勝ちにこだわるより、共により良い結論を目指す方がよいのではないだろうか。テストで何点を取るかより、間違えたところを見直す方が大切であるのと同じである。
第3に、言語を理解する人間であれば、老若男女を問わない。当然子どもも含む。「大人」が子どもを議論の相手方としないのは、そうせざるを得ない状況にあるか、子どもが提起する本質的な問に対して答えることができないか、または、子どもという属性を強調することによって自己の思考停止を正当化している、などの理由によると考えられる。
第4に、議論では、互いの主張の根拠の妥当性を検証する。「自分の意見を貫く」ことは、しばしば無意味である。自己の主張に固執するより、適宜その根拠を見直し従前とは異なる主張を取りうるとする方が、間違いが少ないのではないだろうか。一旦決めた以上後に退けないという思考態度がどのような結果をもたらすかは、歴史が物語る。
第5に、相手の主張の吟味は、多くの場合、その根拠の一部又は全部の否定を伴う。それは、「他人の意見を尊重」しないわけではない。他人の意見を尊重するとは、彼/彼女の主張とその根拠を正確に理解することであり、無批判に同調することではない。
第6に、厳密な論証を行うプロセスこそ重要であり、結果的にどのような結論になるか、また、そもそも結論が得られるかは、瑣末な事柄である。十分な判断資料を持たないため結論を保留するという判断もありうる。それらは、当初考えられていた結論よりも良いはずである。

議論に対するこのような姿勢は、しばしば面倒がられ、または誤解を招く。しかし、自己の主張への同意を強要したり議論を避けてお茶を濁したりするより、それぞれの主張が本当に正しいか考え議論する方が良いのではないだろうか。そうであれば、選択すべきは、後者ではないだろうか。今の私はそう考えるが、あなたはどう考えるだろう。

鳥生 真紗子
調査本部
研究員


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