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2013/07

受け継いでいくこと

由緒ある神社には必ずといっていいほど杉や竹などの大木が天に向かって高くそびえています。みなさんはその理由を考えたことがありますか?
社寺仏閣を修復するときに使用する材料を神聖な区域で栽培していたといういささかロマンのない説もありますが、神話の世界では神々が地上界へ降臨し、やがて天上界へと昇天するための経路として植えられていたと言い伝えられています。

天孫降臨の地といわれる宮崎県高千穂町(人口13,448人、2013年3月末)では、そうした神話を「夜神楽」という民俗芸能を通じて子々孫々へと語り継いできました。舞手と囃子方が代わるがわる三十三番の神楽を演じ続けるこの儀式は、当年の実りへの感謝と翌年の豊穣を願うための神事として、晩秋から初春にかけて町内各集落で開催されます。持ち回りで一般民家を神楽宿に指定し、空高く設置した外注連に降臨した神を神庭に勧請して、神人一体の宴を夜通しで執り行っています。
こうして平安時代から続けられているこの祭事は、あくまでも神への奉納であって、来訪者を呼び込むための見世物ではありません。観光客向けのイベントとして披露されている神楽も一部にはありますが、基本的には地域住民の無病息災、いわば自分達のムラの繁栄を願って舞われています。彼らは神楽の先に富を創造するマーケットを見ているわけではありません。舞うことで莫大な経済効果が生まれるとも思っていないでしょう。非常に乱暴な言い方ですが、つまりこの儀式は利己的で閉鎖的な営みと言い換えることができるかもしれません。

それでは、こうして脈々と受け継がれてきた地域固有の習俗は、人が生きるうえでまるで意味をなさないものなのでしょうか。

現代アートという文化活動を媒介することで過疎地を再生してきた「直島メソッド」により海外から注目を浴びている福武總一郎氏(ベネッセホールディングス会長、福武財団理事長)は、論説のなかでこう語っています。
「――経済は文化の下僕である」
この言葉の意図するところは、ともすると人は経済活動をあらゆる価値判断の中心に据えてしまいがちであるが、経済活動はあくまでも豊かな生活を送るための手段であって決して目的にはなりえないことを忘れてはならないという、現代の価値観に対する警鐘といえるでしょう。
福武氏の考えに深い共感を覚えつつ、私個人の見解として両者の間に上下の関係はないものと考えています。両者はいずれも人の生活にこそ従っているものであり、その決定的な違いは“豊かさ”の意味にあります。豊かな生活を送るための手段が経済活動であるならば、無病息災を願うための儀式もまた、豊かな生活を目指したものといえるでしょう。

ここ数年、かつての物見遊山的な旅行スタイルは完全に支流となり、旅行者は地域を実感することを求め、地域住民と同じような仮初の日常を堪能するようになったといわれています。では、わざわざ旅に出てまで希求する地域住民の「日常」とは何を意味するのでしょうか。それは、その土地の歴史・風土やそれに基づく文化を背景に、人々が長い時間をかけて紡いできたものに他なりません。つまり現在の観光の趨勢は、伝統文化と経済活動という並列しながら尺度の異なる物差しが相俟ったジンテーゼといえるのです。

高千穂町をはじめ暮らしのなかでそれぞれの習俗を守り続けてきた農山漁村。換言すればそのひとつひとつが可能性であり、日本という集合体は無限の止揚を導くことができる可能性のかたまりといっても過言ではありません。「観光立国」の実現、つまり日本が世界の人々の心をとらえていくためには、連綿と受け継がれてきた文化という名のバトンこそが「日本らしさ」を体現する最も重要なキーファクターとなるのです。


前田 幸輔
地域振興部
副主任研究員


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